枝折の径に花の萌ゆ

新人作家・中村汐里による雑記。

駆け出す夏のプロローグ

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帰りのバスを逃した。

次のバスまでは15分。

私はその場で黙って待てる性格ではない。ましてや日射しの下、日傘もないのに立っているなんてまっぴらだ。

15分でなにができる? 巡らせた思考は脳を一周する前に答えを導いた。すぐそばにある、昔なじみの店の暖簾をくぐる。

通された席に悠長に座っている暇はない。荷物だけ下ろし、三歩で辿り着くカウンターに歩み寄ると小さく切られたチラシの裏紙に鉛筆を走らせた。

「レモンミルク 1」

それだけ書いてようやく腰を下ろす。バスが来るまであと14分。

 

注文の品は2分も経たずにやってきた。

爽やかで可憐で懐かしいフォルム。涼しげな硝子の器に盛られた、慎ましい夏の化身。

これだ。私の身体と心が、目の前に置かれた涼を求めて熱をさらに帯びる。

「いただきます」

誰に聞かれるともない呟きは、妙な重さを孕んだ決意表明めいて自分の耳に届く。

スプーンを抜き取る。勢いで黄色がわずかに零れる。

机を汚したことを小さく詫びながら、氷の中央に思いきって匙を突き入れる。心情と動作はあべこべだ。だが気にしている間すら惜しい。

すくったひと匙を素早く口に入れる。甘、冷、柔――それらが綯い交ぜとなって舌を一気にくすぐる。

これだ。今年はじめての刺激が、私に夏を告げる。

バスが来るまであと12分。

 

ミルク系の氷を食べるときの癖がある。

練乳のかかったてっぺんばかりを先に食べてしまいたい気持ちと、底まで混ぜて均一に味わいたい気持ちで揺れながら、私は必ず後者を選んでしまう。

今日とて例外ではない。押し固められた側面を慎重かつ大胆に崩しながら、少しずつ全体をほぐしていく。

フラットにしたいのだ。別々の味わいを時間差で楽しむよりも、全てを均してしまいたいのだ。

最後まで同じ味でいてほしい――そんな風にして、どこかで安心感を求めているのかもしれない。

かき氷に甘える自分を外から見つめたら、さぞかし滑稽なことだろう。

でもそんなこと構わない。かき氷は私を甘やかしてくれる食べものなのだから。

 

バスが来るまであと8分。

山と盛られていた薄氷は次第に湖へと姿を変えていく。

いや、湖と呼ぶにはまだ静寂が足りない。水面にざくざくと突き出した氷の端々から意志を感じる。なにかを伝えようとしているようにも思える。それを淡々とすくっては口に運び込む。

ここまでくると、もはや甘も柔もない。圧倒的な冷ばかりが繰り返し迫ってくる。冷たいはずなのに、確かな熱を感じる。

これだ。冷え切って痺れた口がかろうじて放つ温度、それに抗うように留まり続ける氷。

容赦なく奥歯で噛みしめ、溶けきらぬうちに飲み込む。

これは戦いではない。だが挑みたいと思ってしまう。

その相手が時間なのか、感覚なのか、氷そのものなのか。正体はわからないが。

 

すぐ横に置かれた扇風機の風が前髪を撫でる。首を振るファンがこちらを向くたびに、耳鳴りめいた音が鼓膜を鳴らす。

スマホの時計を確認する。バスが来るまであと4分。

残り少なくなった氷を眺めて少し手を止める。これなら間に合うだろう、そんな油断が脳裏にちらついている。多少休んでも問題ないだろう。

だが次のバスを逃したら? 考えたくはないが、分岐路は目の前まで迫っている。

今度こそ時間を潰せる場所はない。わざわざ冷ました身体を陽に当てたくはない。絶対に間に合わせなければ。

会計の時間と信号待ちの時間を逆算するといよいよ猶予はない。顔には出さないが、内心焦りが広がる。

急げ。このバスに乗れないと息子の帰宅に間に合わないかもしれない。かき氷を食べていて留守にしていたとはさすがに言いづらい。

硝子の器を持つ。レトロな彫り柄を指先で味わう。そうしてほとんど液状になっている中身を呷って流し込む。

冷はさほど強くない。ひたすらに押し寄せるのは甘、そして静かにとろけていた柔。

ミルクを溶かしていなかったらむせ返っていたかもしれない。先ほどまでの凍れる様相からは考えられないほどにやさしく喉の奥を駆け下りる。

これだ。小さな夏の最後の一滴。それを飲み干した瞬間の感傷。

器の中で始まったばかりの夏がひとつの終わりを告げる。

大きく息をついて余韻を楽しむ。シロップのレモンが後を引く。

どれほど急いでいても、この時間だけは削ぎ落とせるものではない。

 

再び時計を見る。バスが来るまであと2分。

「ごちそうさまでした」

立ち上がり、おばちゃんに声をかける。おばちゃんは手慣れた手つきで会計を済ませてくれる。

これなら間に合う。網戸をからりと開いて店を後にする。

立ち去り際にふわりと漂ったおでんの香りが私の後ろ髪を引く。小ぶりな硝子棚に並んだ大学芋が私の足を止めようとする。

だが今日はここまでだ。バス待ちのあいだにかき氷を食べに来た、それだけだ。

余裕なく訪ねてしまったことを少し後悔する。それでもこの時間が私を満たしてくれたのは事実だ。わずか15分の中に、確かな夏の始まりを感じられた。

これくらいせわしない方が夏らしくていい。おそらく私の日々はこれから慌ただしくなっていくだろう。これはきっとその予兆だ。

駆け足で始まった夏に思いを馳せながら、私は変わったばかりの信号を早足で渡る。

 

バスには間に合った。定刻より3分遅れて到着したのは運がよかった。

ギリギリで飛び乗ったバスの中で、かすかに残ったレモンの香りをもう一度深く吸い込んだ。