枝折の径に花の萌ゆ

新人作家・中村汐里による雑記。

【食べきれない】中村汐里生誕記念プリンフェスティバル

ご無沙汰の更新。

元気に生きておりましたよ。

 

先月半ばに誕生日を迎えていた。

毎年ホールケーキを買っていたが、今年はその代わりにやりたいことがあった。

家族の協力もあって実現できたので記録を残しておく。

その様子がこちら。

 

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中村汐里生誕38周年のプリンフェスティバル開幕。

何を隠そう、私はプリン大好き人間。できることなら毎日食べたいと思っている。

今後の人生で一種類しかスイーツを食べられなくなると言われたら迷わずプリンを選ぶほど。

語りまくれるほどの知識はないが愛はある。娘には「お母さんにはプリン食べさせといたら大体解決する」と言われるほどちょろい。

好みのプリンは喫茶店で出されるような硬めのもの。

いいお店あるんですよ、今度紹介します。

 

それにしても圧巻でしょう。圧巻だったんです。

一度でいいからプリンでテーブルを覆い尽くしたいと思っていたんです。

市内の洋菓子店やスーパー、コンビニを巡って集めたプリン、その数27個。

大好物が所狭しと並ぶ光景は幸せの一言。

いやぁ、夢が叶った。

 

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冷蔵庫をギチギチに埋めるプリンたち。

どれを何個食べてもいい。だって誕生日だから。

山ほどのプリンが全て私のもの(もちろん家族も食べるのだがそれはそれとして)。

これだけのプリンを前にして、QOLの高まりを感じない人がいるだろうか?

いるわけがないんだよなぁ~。

 

眺め渡して満足したところで、さて実食。

ところでプリンって賞味期限が短いんですよね。

買ってきたプリンは27個、うちの家族は4人。

単純計算で一人あたり6~7個食べることになるが――正直、家族は私ほどプリンをたくさん食べたいタイプの人々ではない。

つまり私が短期間でめちゃくちゃ食べないといけない。

いいんですか? ありがとうございます!!

カロリー? 幸せって心を満たすものだから実質0カロリーですよね?

 

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というわけで食べたプリンを紹介していく(全部ではない)。

まずは静岡市駿河区の洋菓子店『夢天菓』さんのプリン。

昔ながらの硬めプリンを長年追求したという逸品。

コク深い味わいと滑らかな舌触り、さらりとしたカラメルがおいしい。さすがのこだわり。4個買ったうちの2個を私が食べた。

 

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こちらは静岡市内に複数の店舗を構える洋菓子店『ぷるみえ~る』さんのプリン。

トップのクリームはバニラ風味でふわっととろけるくちどけ。

プリンは少しあっさりめで、クリームとの相性が良い。

娘がキャラメルクリームのプリンを食べていたが、こちらもおいしかったそう。

 

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こちらも『ぷるみえ~る』さんの半熟プリン。

クリームプリンよりも卵感が強く、半熟と謳われるだけあって口触りが心地よい。

別添えのカラメルをトップにかけるため、最初から最後までカラメルを楽しめるのが嬉しい。

 

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静岡市清水区草薙の洋菓子店『ボンヴィラージュ』さんのプリン。

実はこちら、下調べなしで通りがかりに見つけたお店だった。

駅近くながら閑静な通り沿いにあり、町の人に長く愛されている素敵な雰囲気をたたえていた。

肝心のプリンはというと、しっかりとした卵の味わいがたいへん良い。

かなり私の好みだった。少し遠いがまた行きたい。

 

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同じく静岡市清水区草薙の『Cana(サナ)』のプリン。

ミニサイズを買ったのでプラスチック容器だったが、通常サイズを買うとロゴ入りのグラスに入っている。

プリングラスのリユースも行っているらしい。手元に残すもよし、お店に返却して次のプリン代の足しにするもよし。

こちらのプリンは滑らかで程よい弾力があり、やさしい味わいを堪能した。

娘はロイヤルミルクティーのプリンを食べ、満足度が高かったようだ。

 

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静岡市駿河区の『セントラルスクエア』内にある『コージーコーナー』の銀座プリン。

つるんとした食感で口当たりが気持ちいい。かなり好きな食感。

さっぱりと食べられるので、続けて何個も食べてしまえそうだった。

実際に4個中2個食べた。

 

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北海道ミルクのとろけるプリン。

スーパーかコンビニのどちらで買ったのか失念してしまった。食べてすぐにブログを書けばよかった。

名前の通り、とろんとした口当たりでするっと食べられる。卵感よりミルク感が濃い。

 

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絹ごしプリンパフェ~マンゴー~。

これはスーパーで買った記憶がある。ここまでスタンダード系ばかりだったが、フレーバー系も好きだ。

トップのマンゴーソースとマンゴー風味のクリーム、下にはマンゴープリンとリッチ感が高い。フルーツ系のプリンは心が華やぐので良い。まろやかながらも夏らしく爽やかな味わい。

 

以上、プリンフェスティバルの実食レポでした。

正直、一度にいくつも食べようとするのはもったいなかった。

一気にたくさん食べると、どうしても飽きがきてしまう部分は否めない。

プリン専門のスイーツビュッフェに行きたいと思っていたが、なぜ開催されないのか少しわかった気がする。

プリンは1日1個を毎日食べるくらいがいいのかもしれない。

プリンに染まった誕生日を心ゆくまで堪能できたので、今年は気持ちよく過ごせる気がする。

これからをプリンへの愛を忘れずに生きていきたい。

駆け出す夏のプロローグ

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帰りのバスを逃した。

次のバスまでは15分。

私はその場で黙って待てる性格ではない。ましてや日射しの下、日傘もないのに立っているなんてまっぴらだ。

15分でなにができる? 巡らせた思考は脳を一周する前に答えを導いた。すぐそばにある、昔なじみの店の暖簾をくぐる。

通された席に悠長に座っている暇はない。荷物だけ下ろし、三歩で辿り着くカウンターに歩み寄ると小さく切られたチラシの裏紙に鉛筆を走らせた。

「レモンミルク 1」

それだけ書いてようやく腰を下ろす。バスが来るまであと14分。

 

注文の品は2分も経たずにやってきた。

爽やかで可憐で懐かしいフォルム。涼しげな硝子の器に盛られた、慎ましい夏の化身。

これだ。私の身体と心が、目の前に置かれた涼を求めて熱をさらに帯びる。

「いただきます」

誰に聞かれるともない呟きは、妙な重さを孕んだ決意表明めいて自分の耳に届く。

スプーンを抜き取る。勢いで黄色がわずかに零れる。

机を汚したことを小さく詫びながら、氷の中央に思いきって匙を突き入れる。心情と動作はあべこべだ。だが気にしている間すら惜しい。

すくったひと匙を素早く口に入れる。甘、冷、柔――それらが綯い交ぜとなって舌を一気にくすぐる。

これだ。今年はじめての刺激が、私に夏を告げる。

バスが来るまであと12分。

 

ミルク系の氷を食べるときの癖がある。

練乳のかかったてっぺんばかりを先に食べてしまいたい気持ちと、底まで混ぜて均一に味わいたい気持ちで揺れながら、私は必ず後者を選んでしまう。

今日とて例外ではない。押し固められた側面を慎重かつ大胆に崩しながら、少しずつ全体をほぐしていく。

フラットにしたいのだ。別々の味わいを時間差で楽しむよりも、全てを均してしまいたいのだ。

最後まで同じ味でいてほしい――そんな風にして、どこかで安心感を求めているのかもしれない。

かき氷に甘える自分を外から見つめたら、さぞかし滑稽なことだろう。

でもそんなこと構わない。かき氷は私を甘やかしてくれる食べものなのだから。

 

バスが来るまであと8分。

山と盛られていた薄氷は次第に湖へと姿を変えていく。

いや、湖と呼ぶにはまだ静寂が足りない。水面にざくざくと突き出した氷の端々から意志を感じる。なにかを伝えようとしているようにも思える。それを淡々とすくっては口に運び込む。

ここまでくると、もはや甘も柔もない。圧倒的な冷ばかりが繰り返し迫ってくる。冷たいはずなのに、確かな熱を感じる。

これだ。冷え切って痺れた口がかろうじて放つ温度、それに抗うように留まり続ける氷。

容赦なく奥歯で噛みしめ、溶けきらぬうちに飲み込む。

これは戦いではない。だが挑みたいと思ってしまう。

その相手が時間なのか、感覚なのか、氷そのものなのか。正体はわからないが。

 

すぐ横に置かれた扇風機の風が前髪を撫でる。首を振るファンがこちらを向くたびに、耳鳴りめいた音が鼓膜を鳴らす。

スマホの時計を確認する。バスが来るまであと4分。

残り少なくなった氷を眺めて少し手を止める。これなら間に合うだろう、そんな油断が脳裏にちらついている。多少休んでも問題ないだろう。

だが次のバスを逃したら? 考えたくはないが、分岐路は目の前まで迫っている。

今度こそ時間を潰せる場所はない。わざわざ冷ました身体を陽に当てたくはない。絶対に間に合わせなければ。

会計の時間と信号待ちの時間を逆算するといよいよ猶予はない。顔には出さないが、内心焦りが広がる。

急げ。このバスに乗れないと息子の帰宅に間に合わないかもしれない。かき氷を食べていて留守にしていたとはさすがに言いづらい。

硝子の器を持つ。レトロな彫り柄を指先で味わう。そうしてほとんど液状になっている中身を呷って流し込む。

冷はさほど強くない。ひたすらに押し寄せるのは甘、そして静かにとろけていた柔。

ミルクを溶かしていなかったらむせ返っていたかもしれない。先ほどまでの凍れる様相からは考えられないほどにやさしく喉の奥を駆け下りる。

これだ。小さな夏の最後の一滴。それを飲み干した瞬間の感傷。

器の中で始まったばかりの夏がひとつの終わりを告げる。

大きく息をついて余韻を楽しむ。シロップのレモンが後を引く。

どれほど急いでいても、この時間だけは削ぎ落とせるものではない。

 

再び時計を見る。バスが来るまであと2分。

「ごちそうさまでした」

立ち上がり、おばちゃんに声をかける。おばちゃんは手慣れた手つきで会計を済ませてくれる。

これなら間に合う。網戸をからりと開いて店を後にする。

立ち去り際にふわりと漂ったおでんの香りが私の後ろ髪を引く。小ぶりな硝子棚に並んだ大学芋が私の足を止めようとする。

だが今日はここまでだ。バス待ちのあいだにかき氷を食べに来た、それだけだ。

余裕なく訪ねてしまったことを少し後悔する。それでもこの時間が私を満たしてくれたのは事実だ。わずか15分の中に、確かな夏の始まりを感じられた。

これくらいせわしない方が夏らしくていい。おそらく私の日々はこれから慌ただしくなっていくだろう。これはきっとその予兆だ。

駆け足で始まった夏に思いを馳せながら、私は変わったばかりの信号を早足で渡る。

 

バスには間に合った。定刻より3分遅れて到着したのは運がよかった。

ギリギリで飛び乗ったバスの中で、かすかに残ったレモンの香りをもう一度深く吸い込んだ。

「ワイルド」と「ハウスキーピング」の関係から見えるもの

先日、息子がトーストに豪快にかぶりつき、パンくずが盛大にまき散らされた。

その様子を見て、後片付けが面倒だなどと感じている最中にふとした考えがよぎった。

ワイルドな振る舞いと家事の相性は基本的にすこぶる悪い、と。

当たり前のことだろうとは思いつつ、両者を直結させて考えることはそれまでなかった。それが、突然繋がった。

瞬間的にその考えに至った経緯を話す前に「ワイルド」の定義について書き留めておこう。

 

ワイルドとは。

1.野生であるさま。自然のままであるさま。

2.荒々しく力強いさま。

デジタル大辞泉より)

 

ということだ。

それでは家庭内で見られるワイルドな行動を挙げてみる。

 

・靴下を脱ぎ捨ててほったらかしにしておく(洗濯カゴに入れてほしい)

・骨付き肉を持って油がついた指を服で拭う(ティッシュで拭いてほしい)

・調味料がついたままの皿をそのままシンクに出す(水を張らない)

・筋肉自慢対決でシャツを破る(『天空の城ラピュタ』のワンシーンより)

 

……などなど、探せばいくらでも見つかる。

ラピュタの例はレアケースだが、シャツを破いた親方の奥さんによる「誰がそのシャツを縫うんだい」というセリフからもわかる通り、ワイルドであるがゆえの面倒が生じているのだ。

前述したトーストのパンくずもそのひとつ。ダイナミックに散らかさなければ片付けも楽なのに、という思考が至った先がこれだ。

このように、家庭内でのワイルドというのは往々にして「行儀が悪い」「だらしない」という点に尽きてしまう。

嘆かわしく思う主婦の方も多いだろう。私もそのひとりだ(どちらかと言えば私も散らかす側ではあるが)。

各自でやってくれたら済む部分を省略されることで、必要な家事や雑務が増えるのだ。「ひと手間のプロセスを踏んでくれさえすれば、そこに関わる家事は発生しない」

その点において考えると、ワイルドとハウスキーピングの相性は非常に悪くなる。

行儀よくしてほしいな、と思う母親(主に)の心理の根幹はここにあるような気がする。

 

それでは、この関係性を別の角度から考えてみたい。

家事をする側の者としては、面倒を増やさないでほしい=ワイルドでいられたくない=行儀良くしていてほしい となる。ハウスキーピングは家内の清潔や秩序を保つために行うものだからだ。

もうひとつ踏み込んでみる。なぜ家の中を綺麗にしておきたいのか。

おそらく、快適な生活を維持するため、というのがもっとも大きな理由ではないだろうか。

そしてその先に見えてくるのは「精神衛生の確保」になる。家の中が整っている、汚れていない……といった環境があることで、家族は安心して日々を暮らせるのだ。

 

ここでひとつ問題が生じる。

家人がワイルドであればあるほど、気持ちよく過ごすために必要不可欠なハウスキーピングを主に行う張本人のフラストレーションが溜まってしまうのだ。

気持ちよく過ごす環境づくりに勤しめば勤しむほどストレスになる悪循環を断ち切る必要があるが、それが難しい。喧嘩になってしまうケースも多いことだろう。

これはもう、各自で処理してもらうしかない。だが「自分で片付けなさい」と言ったことがない主婦・主夫はいないだろうし、二回以上その言葉を口にせずに済んでいる人もおそらく存在しないはずだ。

そう、何度言っても直らないのだ。だってワイルドだから。

 

どちらかというとワイルド志向の私が思いついた解決方法は二つのパターンだ。

ひとつは「折り合いをつける」こと。

とにかく綺麗にしておかなくちゃ、と神経質になりすぎてしまうと、ちょっとの散らかりが目について仕方なくなってしまう。そのことを指摘し、家族間の雰囲気が少しピリピリしてしまうケースも少なくはない。

そうなると、家庭内が却って落ち着かない場所になってしまわないとも限らない。心が休まらないのでは本末転倒だ。

きっとワイルドな家族は、ちょっとくらい汚しても片付けてくれる人がいるもんね~と安心して奔放に過ごせているのかもしれない。

そんな安心感があるからこそ、ワイルドに――細部に気を配らない甘えた振る舞いになるのだ。そう考えれば可愛いものかもしれない。

どうしても目を瞑れない部分にはきちんと手を入れるとして、多少は大目に見ることも肝要なのだろうと思う。

もちろん、自分で片付けてもらうための声かけはし続けなくてはならないだろうし、それが一番面倒なのだが――

 

もうひとつは「開き直って自分もワイルドになる」こと。

どんなにだらしなくても、手や口の周りをでろでろにしながら食べる骨付きローストチキンのおいしさを知ることも有意義なものだと私は思う。

うっかり服につけられても、どうせ洗うんだからちょっとくらいいいや!の精神で見逃してもバチは当たらない(よほどいい服なら話は別だが)。

パンくずが散らかったって、シミにはならないからね!くらいの気持ちでいたらいい(掃除機は必要だが)。

ピカピカな家をキープする努力が報われないと思ったときは、逆にワイルドなメンタリティでいられることをハッピーに捉えてゆるく過ごしてしまうのもいいかもしれない。

 

でも、もし旦那が見栄を張ってシャツを破って帰ってきたら私は怒るだろうな。

なにを書こうかわからなくなっている

かなり長いこと更新をサボっている。

書くことがなくなったというわけでも、飽きてしまったわけでもない。

なにを書けばいいのかわからなくなってしまっている。

 

自分の中にある引き出しを探ればなにかは見つかるのだろうが、もうずっと頭にもやがかかっていて引き出しの取っ手を掴むのにも苦労しているのが実態だ。

しばらく前から記憶力とアウトプット力が欠落している。加齢の問題ではない。この状態でよく書籍化小説が書けたものだと思う。

この件についてはそのうち触れるつもりでいる。まだ迷っていて書くに至っていないが、おそらく近い未来の私は書くのだろうと思う。

インプットもアウトプットも気力を使うので、読書も執筆もなかなかできずにいる。ブログが書けていないのもその一環だ。

もどかしさばかりが空回りして、なにもできていない自分に焦りと嫌気が募る。

焦ったところでなにが動くわけでもなく、行動を起こすまで変わらないのだろうけど。

 

マイペースにやっていくつもりではいるが、それもさじ加減に戸惑っている。

どこに向かっているのかわからない道を歩いている。なかなかに険しいものだ。

『殻割る音』後日談スピンオフSS『Dolce.ホイップの溶ける温度』

先日、ローカルテレビ局の番組で「おいしい小説大賞」の特集が組まれていたらしい。

報せを受け、おいしい小説大賞で「同期」と呼び合っている作家仲間の数人と企画を打ち出した。

「おいしい小説SSを募って、Twitterに投稿しよう」というものであった。

 

話が持ち上がったのが前日の夕方だったため、深夜に慌てて書くこととなったのだが、なんとか完成させて当日に投稿できたのでほっとしている。

ツイートのタグ検索を使えば遡ることはできるが、流れてしまうのでこちらのブログにも残しておこうと思う。

 

これは『殻割る音』の後日談、戦いを終えた二人の少女が送るほんのひとときのおはなし。

 

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沈丁花が終わった

近所に沈丁花を植えているお宅がある。

4月下旬の頃は、通りかかるといい香りがしていて心を和ませてもらっていた。

特に風のない深夜がよかった。行き交う通行人や車がほとんどない時間帯に、その場に立ち込める花の艶やかな香りを密かに楽しむのが好きだった。

深夜にコンビニに行く道中にあるその家の前で、こっそりマスクを外して香りを吸い込んでは春を感じていた。

 

今日の夕方に通ったときは、もう沈丁花の香りはなくなっていた。

どこかほかの家から漂ってくる煮物の匂いにかき消されたのか、本当に花が終わっていたのか、どちらにせよ花の姿は感じられなかった。

季節の移ろいを知りつつ、物寂しい気分になった。

 

旬が過ぎた花を、何か月も恋しく思い続けることは少ないだろう。

けれど次に季節が巡ってくるまで、香りも花もなくとも思い出す人はいるかもしれない。

私はそのクチだ。咲かない時期でも満開の時期を想ってその場所を通り抜ける。

そうやって待っていてもらえる者の存在が、作家としての私にもいてもらえたらどれほど嬉しいかと考えたこともある。

まだ一作出したきりでこの先のことはなにもわからないし、期待してくれている人がいるかもわからないが、また次につながるよう頑張っていけたらとは思っている。

いま書きたい話のプロットは3本ある。

形にしたいな、という願望ではなく、形にするんだ!という意志で書いていきたいと思う。

 

【日記】母の日は憂鬱

昼に起きたらダイニングのテーブルに一輪のカーネーションがあった。

冷蔵庫には大好物のプリンがあり、手紙のメモが貼りつけてあった。

 

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干しておいた洗濯物が子どもたちによって取り込まれていて、次の洗濯を回して姉弟で干すのもやってくれた。

ありがたいことずくめだ。いい日曜日だった。

 

巷では母の日らしい。

私も母として扱ってもらえるんだな、とぼんやり思った。

こういう行為をしてくれるんだから、子どもたちは素直に育ってくれていると考えてもいいのだろうか。

いや、悩むことがそもそも違うのだろう。そう信じて構わないはずだ。

だが私自身の心を見つめたとき、どうにもつかえるものがある。

私は私の母になにも贈っていないし、声をかけるつもりもなく今日を終えていく。

そうしない理由があるからだ。よそがどうであろうと知ったことではない。「親に感謝の気持ちを」なんてのは綺麗事だと考えて生きている。

なのに、自分の子どもからは一丁前に母の日に花とプリンをもらっている。

今日に限った話ではない。母として認められていると感じるときは必ず戸惑いが生まれる。

自身の在り方が正しいと思うな、見つめ直せ、と俯瞰の自分が常に警告する。母に対してではなく、子どもたちに対しての在り方を。

 

私は母として心を向けられる権利があるのか? 

子どもたちから寄せられた想いを素直に喜んでいいのか? 

 

この迷いは一生ついて回るだろう。母への気持ちを整えれば自ずと解決する話なんだろうが、そこはディスアドバンテージとして背負いながら別のルートを拓くしかない。

私を軸とした親子関係を考えれば考えるほど泥沼にはまる。ささやかで素直な子どもの気持ちにすらも余計なことを考えてしまうのが本当に煩わしい。だから母の日は嫌いだ。

今日はもうなにも考えず、冷えたプリンをゆっくり味わおうと思う。