『殻割る音』という名の卵が孵るまで④
オムレツ作りの練習をする我が娘の姿にヒントをもらい、私は小説の構想を組み上げていった。
料理をしたことがない少女がひとつの料理を作り上げる物語で大筋は固まったが、それだけでは日記帳にしかならない。小説とはそういうものではない、それくらいはさすがに理解していた。努力が実を結ぶストーリーに絡み合う要素が必要だった。
ここで私の個人的な話を少しだけ挟む。
私はどうしてか、面倒に面倒を重ねがちな性分をしている。
要領よく快適にことを進めるのが苦手で、苦労を買いながらぬかるみをかき分けてもがく道ばかり選んでしまうところがあるのだ。
なので、スマートな立ち回りができる登場人物を書くのが少し苦手だ。私の描く人物にはどこかしら泥臭さが滲み出る。キャラクター性の良し悪しはともかくとして、作者である私が自我を投影しすぎてしまっているのだろう。
これは今後の大きな課題のひとつだ。
『殻割る音』の主人公「室本さくら」の性格は、こうしたメンタリティを下地として定まった。
まじめで自己主張をあまりせず、控えめな性格。
学校の成績はよく、自分から望んで中学受験に挑み勉強に勤しんでいる。
家庭環境にも交友関係にも問題はない(自覚していない、という意味だが)。
いわゆる「いい子」だ。大人の手を煩わせず、しっかりしていると褒められるタイプ。言い方は悪いが、大人にとっては都合のいい子どもだ。
そしてこういう子どもに、私は強い既視感があった。遠くの鏡を目の端で掠め見るような感覚があった。正面から見つめるには勇気が要った。
意図して作り上げてしまったのか。それはもう覚えていない。けれど確かに「さくら」は私自身の幼少期を投影した存在だった。
そして、そんな「いい子」が自分の力で場を引っ掻き回すところを見たいと願っていた。できなかったことを代わりにやってもらいたい、という想いを、大人になったはずの私が12歳の少女の背に丸ごと預けてしまったのだった。
「さくら」というキャラクターへの既視感は、私にまつわるだけではない。
すぐそばで料理をしている娘に対しても、私は「さくら」の姿を重ねていた。「娘を主人公のモデルにしました」といった趣旨の話を小学館のサイトでコラムに書いていただいたが、実はそこまで単純なモデルというわけではなかった。
どちらかと言えば、12歳当時の私よりも娘自身の方がさくらに通じる要素を持ち合わせていたと思っている。私は学校では傍若無人に自己主張をする子どもだったから、その点はまるっきり「さくら」とは違う。
まじめで控えめ、しっかりしている、困らされたことがない――それは親目線からすればなんら悪いことではない。安心して見ていられるし、頼りにもなる。不安要素を感じる方が神経質なのかもしれない。
けれど、私は自分自身が「いい子」として過ごしてきた時間を疑っている。深くは触れないが、大人の願望に応えたロールを演じていたと感じている。
もし、娘も同じように感じているとしたら? 表には出さずに抑え込んでいるのだとしたら?
そう考えると怖かった。もちろん私と娘は別の人間であり、こういう考えは一方的な同一視でしかない。それでも私の中には、娘に同じ思いをしてほしくない意識がたいへんに強く根付いている。省みる方法を探し続けて過ごしていたが、答えには辿り着けずにいた。
けれどこの物語が形を持ち始め、自分でもあり娘でもある「さくら」を描くことで、自身を見つめ直す機を与えられたのかもしれないと思えた。
こうなったら書き上げなくてはならない。私のためにも、娘のためにも。
それが、物語に宿す魂を見つけた瞬間だった。