枝折の径に花の萌ゆ

新人作家・中村汐里による雑記。

『殻割る音』という名の卵が孵るまで⑤

『殻割る音』の主人公「室本さくら」に自身と娘の姿を投影したことで、単なる少女の成長譚には新たな要素が組み込まれた。

母娘の心を描き、繋ぐというものだ。

 

「さくら」のディテールを固めた私は、次に重要な登場人物の形成に取りかかった。

それが「さくら」の母親である「室本泉」だ。

『殻割る音』を読んでいただいた方には「泉」がどのような人物か詳細に思い浮かべてもらえることだろう。

彼女は仕事熱心なキャリアウーマンであり、家事も基本的にしっかりとこなし、受験に挑む娘にもきちんと目をかけて後押ししている。少々口うるさくはあるが、いい母親と言える存在だ。

だが「泉」はひとつ問題を抱えていた。この問題こそが物語の中核であり、娘の「さくら」が作中で奮闘する動機でもある。

わたしはこの『殻割る音』において「さくら」を主人公とはしているが、同時に「泉」も主人公と同等の立ち位置で動かしたいと思っていた。

 

この「泉」という人物を描くにあたって、私の中には終始葛藤が付きまとった。

「さくら」が私であるのと同時に、「泉」もまた私だった。そして、私の母でもあった。

とは言え、誤解なきように記しておきたい。母がそのまま「泉」のモデルというわけではない。

娘としての立場で母から拾い上げた要素と、親としての立場で自分の中から拾い上げた要素が組み合わさって生まれているのが「泉」だ。

物語のベースは実話ではない。あくまでも私が練り上げた作品であり、「さくら」も「泉」もよく見知った者のエッセンスを垂らした存在にすぎない。

 

こんな前提を、舞台裏と銘打ったブログの中でわざわざ示す必要などないのだろう。

けれど、そういう予防線を張らないとうまく語れないのも事実だし、そうしてでも綴っておきたい気持ちもある。

もっとも、どう記したものか迷いに迷ってしまい、全く筆が進まない上に脈絡もない文章になっている気がする。

私にとって「泉」とは、それだけ非常にデリケートな存在なのだ。

刊行後4カ月が経った今になっても、ああいった人物像を描写してよかったのだろうかと考えずにはいられない。

 

今日は少し短いが、このあたりで締めようと思う。

次回は『殻割る音』の本編を描くにあたって行った取材について話すつもりだ。