枝折の径に花の萌ゆ

新人作家・中村汐里による雑記。

【日記】母の日は憂鬱

昼に起きたらダイニングのテーブルに一輪のカーネーションがあった。

冷蔵庫には大好物のプリンがあり、手紙のメモが貼りつけてあった。

 

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干しておいた洗濯物が子どもたちによって取り込まれていて、次の洗濯を回して姉弟で干すのもやってくれた。

ありがたいことずくめだ。いい日曜日だった。

 

巷では母の日らしい。

私も母として扱ってもらえるんだな、とぼんやり思った。

こういう行為をしてくれるんだから、子どもたちは素直に育ってくれていると考えてもいいのだろうか。

いや、悩むことがそもそも違うのだろう。そう信じて構わないはずだ。

だが私自身の心を見つめたとき、どうにもつかえるものがある。

私は私の母になにも贈っていないし、声をかけるつもりもなく今日を終えていく。

そうしない理由があるからだ。よそがどうであろうと知ったことではない。「親に感謝の気持ちを」なんてのは綺麗事だと考えて生きている。

なのに、自分の子どもからは一丁前に母の日に花とプリンをもらっている。

今日に限った話ではない。母として認められていると感じるときは必ず戸惑いが生まれる。

自身の在り方が正しいと思うな、見つめ直せ、と俯瞰の自分が常に警告する。母に対してではなく、子どもたちに対しての在り方を。

 

私は母として心を向けられる権利があるのか? 

子どもたちから寄せられた想いを素直に喜んでいいのか? 

 

この迷いは一生ついて回るだろう。母への気持ちを整えれば自ずと解決する話なんだろうが、そこはディスアドバンテージとして背負いながら別のルートを拓くしかない。

私を軸とした親子関係を考えれば考えるほど泥沼にはまる。ささやかで素直な子どもの気持ちにすらも余計なことを考えてしまうのが本当に煩わしい。だから母の日は嫌いだ。

今日はもうなにも考えず、冷えたプリンをゆっくり味わおうと思う。