枝折の径に花の萌ゆ

新人作家・中村汐里による雑記。

沈丁花が終わった

近所に沈丁花を植えているお宅がある。

4月下旬の頃は、通りかかるといい香りがしていて心を和ませてもらっていた。

特に風のない深夜がよかった。行き交う通行人や車がほとんどない時間帯に、その場に立ち込める花の艶やかな香りを密かに楽しむのが好きだった。

深夜にコンビニに行く道中にあるその家の前で、こっそりマスクを外して香りを吸い込んでは春を感じていた。

 

今日の夕方に通ったときは、もう沈丁花の香りはなくなっていた。

どこかほかの家から漂ってくる煮物の匂いにかき消されたのか、本当に花が終わっていたのか、どちらにせよ花の姿は感じられなかった。

季節の移ろいを知りつつ、物寂しい気分になった。

 

旬が過ぎた花を、何か月も恋しく思い続けることは少ないだろう。

けれど次に季節が巡ってくるまで、香りも花もなくとも思い出す人はいるかもしれない。

私はそのクチだ。咲かない時期でも満開の時期を想ってその場所を通り抜ける。

そうやって待っていてもらえる者の存在が、作家としての私にもいてもらえたらどれほど嬉しいかと考えたこともある。

まだ一作出したきりでこの先のことはなにもわからないし、期待してくれている人がいるかもわからないが、また次につながるよう頑張っていけたらとは思っている。

いま書きたい話のプロットは3本ある。

形にしたいな、という願望ではなく、形にするんだ!という意志で書いていきたいと思う。

 

【日記】母の日は憂鬱

昼に起きたらダイニングのテーブルに一輪のカーネーションがあった。

冷蔵庫には大好物のプリンがあり、手紙のメモが貼りつけてあった。

 

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干しておいた洗濯物が子どもたちによって取り込まれていて、次の洗濯を回して姉弟で干すのもやってくれた。

ありがたいことずくめだ。いい日曜日だった。

 

巷では母の日らしい。

私も母として扱ってもらえるんだな、とぼんやり思った。

こういう行為をしてくれるんだから、子どもたちは素直に育ってくれていると考えてもいいのだろうか。

いや、悩むことがそもそも違うのだろう。そう信じて構わないはずだ。

だが私自身の心を見つめたとき、どうにもつかえるものがある。

私は私の母になにも贈っていないし、声をかけるつもりもなく今日を終えていく。

そうしない理由があるからだ。よそがどうであろうと知ったことではない。「親に感謝の気持ちを」なんてのは綺麗事だと考えて生きている。

なのに、自分の子どもからは一丁前に母の日に花とプリンをもらっている。

今日に限った話ではない。母として認められていると感じるときは必ず戸惑いが生まれる。

自身の在り方が正しいと思うな、見つめ直せ、と俯瞰の自分が常に警告する。母に対してではなく、子どもたちに対しての在り方を。

 

私は母として心を向けられる権利があるのか? 

子どもたちから寄せられた想いを素直に喜んでいいのか? 

 

この迷いは一生ついて回るだろう。母への気持ちを整えれば自ずと解決する話なんだろうが、そこはディスアドバンテージとして背負いながら別のルートを拓くしかない。

私を軸とした親子関係を考えれば考えるほど泥沼にはまる。ささやかで素直な子どもの気持ちにすらも余計なことを考えてしまうのが本当に煩わしい。だから母の日は嫌いだ。

今日はもうなにも考えず、冷えたプリンをゆっくり味わおうと思う。

 

「信用」と「信頼」の違いとは

小学4年生の息子に「信頼」と「信用」ってどう違うの? と訊かれた。

曲がりなりにも作家を名乗っている以上、そういった質問には颯爽と答えてやるのが理想なのだが、残念なことに私では確固たる答えを導けなかった。

なので子ども向けの国語辞典で調べてもらった。ちなみに小学館のものである。

 

【信頼】

信じて頼りに思うこと。

 

【信用】

疑わないで信じること。信頼できると評判の良いこと。

 

なるほど? ニュアンスを緻密に汲み取る必要がありそうだ。

国語辞典によると「信用」の範疇に「信頼」が含まれているが、信頼をさらに深めたものが信用ということになるのだろうか。

せっかくなので、私が持っている学研の類語辞典でも調べてみた。

 

【信頼】

相手を信じてたよること。

 

【信用】

間違いないと信じて受け入れる。

 

なるほど。なんとなくわかってきた。

「信頼」はそれ自体は単一方向の「信」、「信用」は双方向の「信」ではないか?

頼る側が信じれば、頼られる側も基本的には相手を信じるだろう(詐欺などの場合は除くが)。だがそこには心象のラグがある。同時に互いを「信用」からスタートできるわけではなく、それぞれの「信頼」から始まるのかもしれない。

いつ「信用」に変わるのかは人次第だろうが、多かれ少なかれ「信頼」の段階である時間が存在しているのだろう。その時点では相手に対する期待の裏に「背かないでほしい」という思いが存在しているようにも思える。

その点を考えると、「信用」における「疑わない」「受け入れる」という点は非常に大きな要素ではないだろうか?

これは「信頼」には記載されていない内容だ。猜疑心を持たずに相手を認め合えている状態は、信じる力がより強くなっている印象を受ける。これこそが双方向の意思にあたると私は考えた。

 

これらを踏まえて「信頼」と「信用」の違いを画的にイメージ化してみた。

「信頼」は向かい合って握手しながらも、どこかまだ探り合う雰囲気を互いに背中に隠している。笑顔こそ浮かべつつも「期待を裏切らないでくれよ」という本心がかすかにある。信じるという行為にまだ努力の色が滲んでいる。

それに対して「信用」は完全に背中を預け合う状態だ。自分の視界に入らない背後を相手に任せられると互いに思っている。振り返りもしないし笑いもしない。その必要がないからだ。

このように考えると、違いがよくわからなかった言葉もまったく違うものだということがよくわかる。

息子が疑問を持って問いかけてくれなかったら考えもしなかったろう。いい機会を与えてくれた息子に感謝しつつ、このイメージを小学生にも理解しやすく伝えたいところだ。

息子が好きそうな作品のキャラクターに例えるのが手っ取り早いが、さて息子はなにが好きだったかな……アニメも漫画もあまり触れてなくて把握できてないな……

なんて言ってるうちは、親子間の信用がまだまだということ。精進したいところだ。

 

【終末戦争】きのことたけのこと、それを遠巻きに眺める者

人々はなぜ争うのか――

 

令和の時代になっても争いは止まない。争うことでは解決しないと知りつつも、それでも声を上げずにいられない人間たちを私は何人も見てきた。

今回のテーマとして取り上げる「きのこたけのこ戦争」は、数ある争いの中でももっとも激しいもののひとつと言えるだろう。

これほどまでにポピュラーで、かつデリケートな戦いをほかに知らない。両陣営の雌雄が決することはおそらくないだろうが、それでも人々は戦い続けるのだろう。

幼い子どもすらも知っているこの大戦争、その名を呼ぶのも躊躇われる。

どちらの陣営を先に呼ぶかで順位付けをしていると思われかねないからだ。

 

先に言っておく。私はこの争いにおいては中立派だ。立場を表明せずに逃げていると思われても構わない。理由は後述する。

今回この話題に触れるにあたって、あくまでも「五十音順」に従いって「き」を先に「た」をあとに挙げたに過ぎないとはっきり伝えておきたい。

きのこを優遇して先に出すわけではない。たけのこを下に見ているわけでもない。どうか誤解なきように。

 

さて問題の二陣営がこちら。

 

きのこの山

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たけのこの里

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この戦いが終わる日はきっと来ないだろう。たとえ販売が終了になっても。むしろさらに激化して収集がつかなくなる可能性すらある。

例えば、万が一の話だが……「きのこの山」と「たけのこの里」に製造販売終了の日が訪れたらどうなるだろうか?

各陣営の支援者たちは、まず店頭在庫の確保に走るだろう。私もそうする。どちらも買う。

その中で、きのことたけのこのどちらが早く売り切れたのかを報告する者が出てくるだろう。SNSで人の目に触れ拡散される情報は、味方陣営を鼓舞し、また相手陣営の対抗心を煽り立てる。この動きは急速に拡大すると予想される。

一日も早く完売を目指そうと、各陣営の者は躍起になって商品を探し、見つけ次第購入して自陣営の売れ行きに貢献することだろう。

とある町のコンビニから始まる「きのことたけのこどちらが先に売り切れたかバトル」が、全国スケールの一大ムーブメントとなる可能性があるのだ。

とてつもない話だ。その中で加熱する思想のぶつかり合いが大きな火種とならないことを願うしかない。

とは言え、もはや和解の道は見いだせない。戦争の終結に向けて我々にできることはないのだろう。今だって日本のどこかできのこ派たけのこ派の緊迫したやりとりが行われているはずだ。

老若男女、古今東西を問わぬこの争いは永遠のものだ。センシティブ案件だ。

我が家でも夕方買ってきたきのことたけのこのどちらを先に開封するかで慎重に家族会議を行った。今回はたけのこを先に開けたが、その理由を開示することで不要な論争が巻き起こるのは避けたいので伏せさせてもらう。

諍いは絶えないが、終売せずにずっと売れ続けていてもらうことが、結果的に一番平和なのかもしれない。この記事を書きながら、しみじみ思った。

これからも購入したい。いつまでも売れ続けてもらうために。

 

とにかく、たいへんに慎重を要する議題だった。今回勇気をもって書いてはみたが、あまり深く掘り下げたことまでは触れられなかった。

ご意見は受け入れるつもりでいるが、寛大なご容赦を頂きたい。

きのことたけのこのどちらかに肩入れしている描写と取られないよう、敢えて味や食感については伏せた。私はどちらも好んでいる。シーズンによって変わるフレーバーによって多少好みの偏りは起きるが、基本的にどちらも同じくらい好きだ。

 

なお、そんな「きのたけ中立派」の私が敢えて選びたい第三勢力がある。

読者の皆様はご存じだろうか。

 

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「エブリバーガー」

 

第三勢力と呼ぶには弱いことは百も承知だ。そもそもメーカーが違う。

というか、販売店舗が少ない。うちの近隣には2店舗しかない。知名度が低い。名前を出せば高確率で「懐かしい」と言われる始末だ。

だが私はこのお菓子が好きなのである。バンズを模してゴマをかけたビスケットで、パテをイメージしたミルクチョコとチーズ風の黄色いチョコを挟んでいるのだ。

めちゃくちゃ凝ってる。チョコが2種類入ってるなんてどうかんがえてもリッチだ。作り込みも丁寧でどこからどう見てもハンバーガーだ。ひと口で食べられるハンバーガーというだけで満足度が半端なく高い。バンズのビスケットと具のチョコ部分を剥がして肉厚多重バーガーにして遊んでも怒られない。

そして間違い探しがついているところが地味に高得点なのだ。

この間違い探し、難易度がいくつか設定されているのだが、難しいものはほんとうに難しい。食べながら子どもと一緒に楽しめる。コミュニケーションを生み出してくれるお菓子なのだ。

エブリバーガー、平静初期の香りが否めないマイナー商品ではあるが今でも現役選手だ。店頭で見つけたらぜひ手に取ってみてほしい。

正直、きのこたけのこの争いに疲れてしまった人にこそお勧めしたい。エブリバーガーと争う者はいない。平和な幸せの象徴と言っていい。

ただし数は少ない。出会えたら幸運な仙人のような存在かもしれない。

 

念のため言っておくが、私はきのこ派でもたけのこ派でもない。どちらも好きだ。

争いになんの意味がある? 好きなものを好きと、おいしいものをおいしいと言えばいいだけではないか。きのこもたけのこもおいしい!

ただ私は、それ以上にエブリバーガーが好きなのだとはっきり言っておく。

エブリバーガー最強!

【美味】ソースと油と肉汁が染みた白飯を掻き込む幸せ

福井の『ヨーロッパ軒』は良い。

  

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丼から溢れそうなカツを蓋に移してから食べるものらしい。シンプルながら飽きの来ないおいしさでぺろりと食べてしまえる。

ソースがどこかひと味違うと思ってはいるものの、その味の秘密には辿り着けていない。自宅でヨーロッパ軒のソースを再現しようと試みたこともあったが、それは未だに叶っていない。

三枚のカツが乗ったカツ丼はもちろんおすすめ。メンチカツが乗ったパリ丼もいい。

丼以外の洋食メニューも揃っている。いつ行ってもなにを食べようか迷ってしまう。

滋賀に住んでいた頃は何度か訪れていたが、引っ越して距離ができた上に出かけづらいご時世もあってかなり遠い存在になってしまった。

北陸に行ける機会を得たら必ず行くつもりでいる。

もう一度行きたいお店というのは、人生におけるささやかな光だと思う。

 

yo-roppaken.gourmet.coocan.jp

 

えっふるさと納税でヨーロッパ軒のソースとパン粉もらえるの??

サイト見るまで知らなかった。前向きに検討します。

【美味】果汁滴るアップルパイ!青森土産の『気になるリンゴ』が本当に気になる

ブログの継続を習慣化させないとすぐサボることがよくわかった。

毎日更新は大変だなぁと感じている。他人事では困るのだが。

ネタがないことには書けないので、ここ数日自分が書けそうな話について考えていた。

その結果、おいしかった食べものや飲みものの紹介をしていくことにした。

今後も小説についての話、私自身についての話もしていくだろうが、食べもののことが一番書けそうだったので。

 

そういうわけで、今回は旦那が青森で買ってきてくれたお土産の『気になるリンゴ』について。

 

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気になるリンゴ

Twitterにもアップしたこの商品、ほんとうにおいしかった。家族で四等分にシェアしたが、正直独り占めしたいほどだった。

食べ終わった今、その味を思い出して感慨に浸っている。

だが切り分けた段階ですでに、これはおいしいだろうと確信を持っていた。

その理由は断面にある。画像を見てもらえば伝わるだろう。

 

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断面の様子

美しく整った断面に惚れ惚れする。私の切り方が丁寧だったことも否定はしない。だが、とにかく素材そのものが良いのだ。

薄いパイ生地はぼろぼろに崩れず、中のリンゴは丸ごとの重みがありながらもへたることなく自立している。上の隙間から少しだけ見えるリンゴの皮に張りがあるところから、そのみずみずしさがよくわかる。

それもそのはず。このリンゴは煮込まれているのではなく、生の状態でシロップ漬けにされているのだ。くったりするまで加熱したリンゴを使ったアップルパイは好物だが、煮ていないシロップ漬けのリンゴは初体験だった。

おいしいことには違いないが、どんな味と食感なのだろう。

そんな期待にときめきながら、私はざっくり切り分けたアップルパイを手で掴んで大きく齧った。ナイフとフォークはいらなかった。

私の脳裏には、小学生の頃に丸齧りがしたくてお小遣いで買ったリンゴの記憶が蘇っていた。

 

ひと口噛みしめて驚いた。リンゴが溜め込んでいた水分が口の中に一気に溢れてきたのだ。

アップルパイを食べて飲み物がほしくなることはある。だが逆に潤うのは初めてだ。リンゴそのものの水気と染み込んだシロップは、控えめな甘さと爽やかな香りを湛えて弾けるように口いっぱいに広がった。

生の果肉より柔らかいのにフレッシュで、アップルパイでありながらリンゴの果実そのものだった。齧り付いて正解だった。

『気になるリンゴ』の名の通り、パッケージの状態から興味をそそられる商品だったが、食べてみてさらに惹かれた。食感と丸ごと一個の満足度が高かった。

青森に出向く機会はそうそうないが、またそのうち物産展などで見かけたら家族の分と私の分を用意しようと思う。あのサイズを独り占めしてみたいので。

とてもおいしかった。ごちそうさまでした。

 

お店のサイトはこちら。

www.rag-s.com

『殻割る音』という名の卵が孵るまで⑩

『殻割る音』という作品の舞台裏について語るのは今回が最後だ。

今回は、私の執筆環境について少しだが記したい。

日本おいしい小説大賞への応募に向けて、初めて長編小説を書こうとした私が使用したエディタを紹介する。

 

当時、私は執筆のすべてをiPhoneで行っていた。

複数のアプリを使い分け、プロットから印刷用pdfの発行までスマホで済ませた。

私が使ったアプリを以下に挙げておく。

 

・デフォルトでインストールされていたメモ帳

・文字数カウントメモ

・縦式

・Word

 

もっとも使用頻度が高かったのはデフォルトのメモ帳だった。

世界設定、プロット、本文はすべてメモ帳に書いた。章ごとに分け、バックアップとして全体をまとめたものも用意した。修正するたびに全文のメモも更新していた。

単純な文字入力以外に使った機能は検索のみだった。全文のメモ内で単語を検索し、表記ゆれのチェックを行っていた。応募の時点で慎重に表記ゆれチェックをしておいたことが、のちに編集さんを通じた改稿作業を少しは楽にしていたのかもしれない。

 

続いて「文字数カウントメモ」

 

miraku.dev

 

こちらのアプリは、章ごとの文字数確認および第二のバックアップとして使った。

章によって文字数バランスを大きくばらつかせたくなかったので、それを意識する意味でも「文字数カウントメモ」は役に立った。

このアプリとは5年ほど前に出会った。その当時私は在宅ライター業をしていたのだが、規定の文字数内での文章作成がしやすいアプリを探していた。そしてこの「文字数カウントメモ」をTwitterのフォロワーから教えてもらったのだった。

視覚的にも感覚的にも使いやすく、カテゴリ分けも便利だ。今でも文字数確認をしたいときにはお世話になっている。

 

続いてこちらの「縦式」

 

tateshiki1966.blogspot.com

 

このアプリは縦書きで文章を作成できるので、スマホでも原稿の視覚的なイメージを広げることができる。「縦式」は応募の直前、最後の最後で大活躍してくれた。

私は「縦式」を人名へのルビ振りで使用した。当初はWordでルビ振りを試みていたのだが、入力する際に行間隔が壊れて頭を抱えていたのだった。「縦式」ではルビを入れてもズレがなかったのがありがたかった。

さらに、応募用のpdfも「縦式」で作った。規定に沿った行数文字数でエクスポートし、そのままプリントアウトできたので手軽だった。

原稿用紙の形式で出力もできるので、原稿用紙換算枚数を確認するのにも役立った。

さすがに今はWordを最低限使えるようにはなった。だが当時はWordと分かり合えないと真剣に思っていたので本当に助けられた。

もちろん現在もお世話になっている。iPhoneのホーム画面には、すぐアクセスできる位置に「縦式」を設定している。紹介しきれないほど便利な機能が目白押しな上に使いやすいので、多くの人におすすめしたい。

 

これらのアプリがなかったら、応募にこぎつけていなかったかもしれない。つまり『殻割る音』が世に出ていなかった可能性があるのだ。大袈裟な話ではなく。

当時「パソコンで小説を書こう」という考えは驚くほどに薄かった。

どこからどう見てもスマホ中毒だった私にとって「スマホで書こう」の方が自分のスタイルにしっくりきていたし、滞ることもなかった。

小説がスマホで書けるという実体験を得られたことで、執筆のハードルも下がったように感じる。

今でこそパソコンに向き合ってWordで本文を書くようにはなったが、プロット作りはまずスマホのスタイルは変わっていない。スマホにもWordをインストールしているし、自分の使いやすいやり方でアプリを併用するスタイルは今後もしばらく続くだろう。

 

『殻割る音』にまつわる話はここまで。

今後も思い出したらまた少し話すこともあるだろうが、思ったよりも多くを語ってしまったなと思っているのでもうないかもしれない。

ブログを通すと饒舌になりがちだ。原稿は遅筆なのに。

今後もなにかしら書いていくつもりだ。思考の整理に使う可能性もある。

お付き合いいただける方には、今後もよろしくお願いしたい。