『殻割る音』という名の卵が孵るまで②
自著『殻割る音』は出版社を通じて文庫本となり、書店に並んだ。
その状況に置き去りにされていたのは、ほかでもなく私自身だった。
夢見心地というよりは疑心暗鬼に近い心持ちのまま、私は「作家」と呼ばれるポジションに立ってしまっていた。
実感を抱けなかったのには理由がある。そのことについても触れようと思うが、その前に私が執筆活動を始めたきっかけについて話したい。
話は『殻割る音』執筆以前の2018年まで遡る。
「中村汐里」になる前、私は一介の平凡な主婦だった。
ささやかに幸せを与えてくれる家族に囲まれ、家事と育児とスマホのゲームに明け暮れ、活動とは呼べない程度に気晴らしのお菓子作りや手芸などをして過ごしていた。
日頃名乗っているのは本名とSNS用のハンドルネーム以外になかった。ペンネームなど持っていなかったし、考えたこともなかった。
つまり、それまでの私は執筆活動とは無縁の生活を送っていたのだ。
ぼんやり生きてきた主婦が、なぜこの歳になってペンを持つに至ったか。
そこには私の死生観に多大な影響を与えた人物――叔父の死がある。
2018年の夏、叔父は52年の生涯を閉じた。
叔父は私が1歳の頃、部活動中の事故で寝たきりになった。
元気な頃の叔父を私は知らない。物心ついた頃から、彼はずっとベッドに横たわっていた。その姿になんら違和感を覚えないほどに、私の中では当たり前に「そうしている」存在だった。
叔父は34年ものあいだ、見舞う人間の顔と天井ばかりを見つめて過ごした。そして途方もない時間を超えて穏やかに息を引き取った。
じりじりと身を灼く陽が沈むのを追うように、夏の夜風に導かれて彼は旅立っていった。
叔父のことはいくらでも書ける。けれどこのブログで多くを語るつもりはない。
今後また触れることもあるだろうが、それはまた別の話。
叔父の半生を見届けた私の中には、ままならない感情が芽生えていた。
彼の生きざまを人に伝える術はないだろうか。
なにもできないまま見ているだけだった私に、今からでもできることはないだろうか。
湧きあがった想いを認めながら、行動を起こせずただぐるぐると考えあぐねていた。
そんなとき、立ち寄った市役所で偶然とある情報を目にした。
地元の文芸コンクールの作品募集案内だった。
この「静岡市民文芸」については初耳だったが、直感的に惹かれてチラシをもらった。
私はもともと文字が好きで、学生時代は唯一国語が得意だった。大学でも文学部に進んでいる(ドロップアウトしているが)。文章を書くことなどすっかりしなくなっていたが、思い返せばこのときになにやら縁を感じていたのだろう。
チラシをよく読んでみると、「静岡市民文芸」とは多岐にわたるジャンルの作品を募る、年に一度の市民向け文芸コンクールだった。
〇小説
〇児童文学
〇評論・ノンフィクション
〇随筆・エッセイ
〇現代詩
〇短歌
〇俳句
〇川柳
私が知ったのは、叔父の逝去から二週間ほど経った頃。締め切りのひと月前だった。
「今から書けば間に合うのでは?」
ふとよぎった考えに、はじめは少し躊躇した。書いたところでなにを為せるわけでもないだろう、という諦め根性が私の中にあったからだ。
けれど、ほかの誰に評価されなくてもいいから、ひとつの形として残すだけでもいいのだと思い直した。気負わず叔父への想いを綴り、家族に読んでもらい、せっかくだからコンクールに出してみてもいい。
そのくらいの気軽さに落ち着けた私は、児童文学部門に応募することにした。
小説部門ではなく児童文学部門にした理由はさほど深くない。短編の方がすぐに仕上がるだろうという目論見と、私の目線が大人よりも子どもに寄っている気がしていて、小学生を主人公にした方が書きやすいと思ったからだ。
そうしてプロットと呼ぶにはやや長い筋書きを作り、描写を肉付けした文章を書いた。
『瑠璃色の釣り竿』とタイトルをつけたその短編小説は、私が人生で初めて書き上げた「小説」だった。
私の経験をそのまま額面通りに書き出すのではなく、世界観と登場人物に想いを投影して表現する。それ自体が触れたことのない経験だった。
私の中に執筆の楽しみが芽生えたのは、確かにこのときだった。
数ヶ月後、事務局からコンクールの結果通知が届いた。
入選してたらラッキーだな、くらいの気持ちで封を開けた私の目に飛び込んできたのは予想外の文字だった。
「市長賞受賞」
ほんとに言ってる?? と、五度見くらいした。にわかには信じがたかった。
けれど同時に、とてつもない高揚感が胸から脳天にかけて駆けのぼるのを感じていた。コンクールで結果を出せたこともよかったが、叔父に捧げるつもりで書いた作品を自分以外の誰かが評価してくれたことがなにより嬉しかった。
ハナから諦めずにやってみるものだな、とも思えて自信につながった。
当時の作品はこちらのページに掲載されている。
児童文学部門『瑠璃色の釣り竿』、ペンネームは風吹柳花。
かつて使っていたネットのハンドルネーム以外に思いつかずそのまま使ってしまった名前だったが、もう少しなんとかならなかったものかと気恥ずかしい思いがある。
いわゆる処女作と呼ばれる扱いになるこの短編、興味のある方がおられたらぜひ読んでいただきたい。
稚拙さは拭えないが、思い入れは強い作品だ。
ページが毎年更新されるので数年後にはネットで読めなくなってしまう。それまでにできるだけ多くの人の目に触れてほしいと思っている。
受賞作品集として出版もされているが、こちらももう入手はできない。ちなみに我が家には三冊ある。
なお、静岡市民文芸には後日授賞式があった。
人前に出る機会が訪れてしまった現実に怯えて必死でダイエットに取り組み、少しきつめのワンピースをなんとか着られる程度には減量して式に出席した話はまた折を見て書くつもりだ。
次回は『殻割る音』の生まれた経緯について話そうと思う。